2008年11月18日

たぶん堂々巡りなのだろうけどさ

愉しみにしているサッカーが雨天のため中止(T_T)


そこで今晩は読書。那覇もシトシトと始まった。うん、こんな日はやはり晴耕雨読。
ということで、本棚から目があった本を取ってきて読み始めた。この本を読むのも何度目になるのかな。

たぶん堂々巡りなのだろうけどさ
村上春樹さんの『回転木馬のデッド・ヒート』(講談社文庫1988※初出は1985)


読み始めて思い出した。うっ・・・、この本の冒頭はかなり凹むんだった。例えばこんなくだり・・・。


自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。(前掲書p.13)


村上さん、そんな殺生な・・・。迷信、神話、錯覚とまで断言する彼の語調には怒りに似たものさえ見え隠れする。確かにポストモダン的な考え方からすればそう言えるのかもしれない。エスノメソドロジーだってそうだし、現象学だって、相互行為論だってそうだ。現代思想の潮流はそこに向かってる。僕たちのやってることに、たどり着くべき答えはない・・・と。

でもさ、「人は書かずにはいられないから書く」と言えども、もしもそれが正鵠だとしても、その営為を選択し継続するとき(それが無理矢理であったとしても)、私たちは、それが偽物であろうが何であろうが物語を語らずにはいられないのではないのだろうか。意味を見出す営み。私たちの生とはそういうものではないのかな。実存の叫びを無視した言説というものに、僕は耐え難さを覚える(だからといって実存論に荷担するつもりもないけれど)。なぜかって?そういう意味を見出さなければ、僕はこの残酷な世の中で生きてはいけないと強く強く思うから。他ならない僕の問題なのだけど。

「何かに到達したような気分になったんなら、それはそれでいいさ」と、サラッとこれまでの村上春樹なら言いそうなものだけど・・・。なぜだろ。「大きな物語」に身を寄せてしか生きられない人間の切なさを、ここでの村上春樹とは共有できない。


弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
(村上春樹著『風の歌を聴け』講談社1979)


この本を読んだのは高校生の終わり。『ノルウェーの森』の次に読んだ。



「象が大好きな平原に還り、僕は思うままにステキな言葉で世界を語り始める」


輝いた未来が待ってるなんて、バカらしいのは分かってる。堂々巡りから逃れられないのも何となく気づき始めてる年頃。でも僕はそういうイメージに支えられて今まで生きてきた(これもまた物語なのだけれど・・・)。




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Posted by sky1973629 at 21:52│Comments(2)本を読む
この記事へのコメント
『少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。』

う〜ん。ショッキングな一行だな。

僕も高校生のとき読んだけど、さすがに憶えてないね。
近いうちに読んでみよう。

「信じる者は救われる」と言うが、
これもまた錯覚なのかな。

う〜ん。あれこれ考え込んでしまうね。

ま、答えなんかハナっから知る術もないから、
転がり続けるしかないなっ!!
Posted by みやじまみやじま at 2008年11月18日 23:49
みやじまくん>
ローリングストーンで参りましょ。でもただじゃ転がらん、よ。ね。打ちパでまったりやりましょうね~。
Posted by コメスセイキ at 2008年11月18日 23:52
 
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