2008年04月15日
「楽しい」ことが大事なの
最近、とても忙しいのだけれど、それでも、
毎日を楽しんでいる。
僕はもう人生の折り返し。
このブログを書き始めたのも、それがきっかけだった。
ずっと周りを気にして突っ走ってきた。結果、焦燥感ばかりに苛ま
れて、楽しくなかったことが多かった。だから、もう金輪際、楽しむ。
僕のために。
与えられたかけがえのない人生のため(ちと、くさいな)。
だから、申し訳ないのだけど、
楽しいことしかやらない、ことに決めた。
楽しめないものには参加しないし、顔も出さない。申し訳ない
のだけれど。それに費やす時間を考えれば、楽しいことをもっ
ともっと重ねることに腐心する。
なので、この前の会合はごめんなさい。行きたくなかったの。
という素直な言い訳で、同僚や友達を失う。
最近、ずいぶん人との関係を失ったような気がする。
んでもまあ、それくらいで切れるものは切る、ことにする。
もちろん、
もちろん、成長するためには常に逆境が必要である。事実。
怠け者だからこそ、これは重々承知である。
だけど、逆境は楽しめるものに限るようにしている。
何でもかんでも受け付けないし、求めない。喜びある艱難辛苦
以外は逃げる。「お腹が・・・」など、子どもじみた言い訳でもよ
いので逃げる。
これは案配が難しいのだけれど、「よぉーし!!」と、辛いんだけ
ど受け入れることのできる逆境とそうでないものの線引きである。
「楽しい」「楽しい」と書いて、コメスは幼稚だとお思いの方もいら
っしゃるかもしれない。正解!!もちろん、ご案内の通り、幼稚な
人間なのだが、
だが、この「楽しい」には実は人間存在にとって、とりわけ人と肩
を並べて生きざるを得ない人間存在にとっては、ものすごく大きな
意義がある。
何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあら
ゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの
主張である。だから、子供の教育において、第一になすべきこと
は、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり
自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に
覚え込ませてやることなのである。
(永井均著『これがニーチェだ』講談社学術文庫)
子どもだけではない。。もちろん。おとなも然り。
「人生が楽しいこと」。これが道徳教育よりも優先されるべきこと
を、ニーチェは示した(と永井さんは言っている)。
人は人生を「楽しめ」ば「楽しむ」ほど、この世で生きる存在となり
(生きざるを得ない存在となり)、道徳的言説に身を開く存在とな
ることが、このニーチェを敷衍した永井さんの指摘は教えてくれる。
そうかぁ、だから、余生を田舎で楽しんでいる夫婦を紹介するあの
番組に出てくる人々は、なんだかモラルチックなのかいな。「楽しん
でる」からこそさ。
しかしまあ、僕は自分が「楽しむ」ために、時に人との関係を断絶
しているのも事実。断絶することで生まれる道徳性って、何よ。と
疑問に思うのは確か。奥は深い。ちゃんちゃん。
訳わかんない論考かも。ごめんなさい。
「楽しむ」ことが戦略的に使われると嫌気がさす。「楽しむ」のは、何
より自分の生のためにするもの。その主体性は我にありや。ヤな仕
事を与えておいて、どんなことでも「楽しむ」ことが成長なんだ!と嘯
くなんて、そりゃあ無理な注文だし、それをまんまと間に受けりゃあ、
それは宗教以外の何者でもない。弱者の思想、ルサンチマン、それ
である。
毎日を楽しんでいる。
僕はもう人生の折り返し。
このブログを書き始めたのも、それがきっかけだった。
ずっと周りを気にして突っ走ってきた。結果、焦燥感ばかりに苛ま
れて、楽しくなかったことが多かった。だから、もう金輪際、楽しむ。
僕のために。
与えられたかけがえのない人生のため(ちと、くさいな)。
だから、申し訳ないのだけど、
楽しいことしかやらない、ことに決めた。
楽しめないものには参加しないし、顔も出さない。申し訳ない
のだけれど。それに費やす時間を考えれば、楽しいことをもっ
ともっと重ねることに腐心する。
なので、この前の会合はごめんなさい。行きたくなかったの。
という素直な言い訳で、同僚や友達を失う。
最近、ずいぶん人との関係を失ったような気がする。
んでもまあ、それくらいで切れるものは切る、ことにする。
もちろん、
もちろん、成長するためには常に逆境が必要である。事実。
怠け者だからこそ、これは重々承知である。
だけど、逆境は楽しめるものに限るようにしている。
何でもかんでも受け付けないし、求めない。喜びある艱難辛苦
以外は逃げる。「お腹が・・・」など、子どもじみた言い訳でもよ
いので逃げる。
これは案配が難しいのだけれど、「よぉーし!!」と、辛いんだけ
ど受け入れることのできる逆境とそうでないものの線引きである。
「楽しい」「楽しい」と書いて、コメスは幼稚だとお思いの方もいら
っしゃるかもしれない。正解!!もちろん、ご案内の通り、幼稚な
人間なのだが、
だが、この「楽しい」には実は人間存在にとって、とりわけ人と肩
を並べて生きざるを得ない人間存在にとっては、ものすごく大きな
意義がある。
何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあら
ゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの
主張である。だから、子供の教育において、第一になすべきこと
は、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり
自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に
覚え込ませてやることなのである。
(永井均著『これがニーチェだ』講談社学術文庫)
子どもだけではない。。もちろん。おとなも然り。
「人生が楽しいこと」。これが道徳教育よりも優先されるべきこと
を、ニーチェは示した(と永井さんは言っている)。
人は人生を「楽しめ」ば「楽しむ」ほど、この世で生きる存在となり
(生きざるを得ない存在となり)、道徳的言説に身を開く存在とな
ることが、このニーチェを敷衍した永井さんの指摘は教えてくれる。
そうかぁ、だから、余生を田舎で楽しんでいる夫婦を紹介するあの
番組に出てくる人々は、なんだかモラルチックなのかいな。「楽しん
でる」からこそさ。
しかしまあ、僕は自分が「楽しむ」ために、時に人との関係を断絶
しているのも事実。断絶することで生まれる道徳性って、何よ。と
疑問に思うのは確か。奥は深い。ちゃんちゃん。
訳わかんない論考かも。ごめんなさい。
「楽しむ」ことが戦略的に使われると嫌気がさす。「楽しむ」のは、何
より自分の生のためにするもの。その主体性は我にありや。ヤな仕
事を与えておいて、どんなことでも「楽しむ」ことが成長なんだ!と嘯
くなんて、そりゃあ無理な注文だし、それをまんまと間に受けりゃあ、
それは宗教以外の何者でもない。弱者の思想、ルサンチマン、それ
である。
Posted by sky1973629 at 23:10│Comments(3)
│本を読む
この記事へのコメント
私たちって人生の折り返し地点なの?ちょっとドキッとしたよ。
楽しめるっていうことは幸せなことだよ。
私もちょっといろいろと考えてみようと思います。
楽しめるっていうことは幸せなことだよ。
私もちょっといろいろと考えてみようと思います。
Posted by 凛MM
at 2008年04月16日 01:59

最近の貴方の文章は。。。。
グッと来ますね。
よくもまあ、多忙な日々を過ごしながら
パンチの効いた引用を使いまくりやがって!
実は僕も来月から楽しい事が始まりそうです。
というか、楽しい事だけをやらなくちゃいけない仕事が
待ち受けてます。
ぜひ直に報告させてください。
断るなよ!(苦笑)
グッと来ますね。
よくもまあ、多忙な日々を過ごしながら
パンチの効いた引用を使いまくりやがって!
実は僕も来月から楽しい事が始まりそうです。
というか、楽しい事だけをやらなくちゃいけない仕事が
待ち受けてます。
ぜひ直に報告させてください。
断るなよ!(苦笑)
Posted by みやじま
at 2008年04月16日 02:15

>凛MMさん
そうなのですよ。折り返し。時が経つのはあまりにも早いものですね。だからこそ、一日一日を大事に、有意義に過ごしたいなぁ、と思っているのでございます。
>みやじまくん
もちろん断りません。そろそろ呑みましょうか。君のことだから、また楽しいことを考えているのでしょう。報告楽しみにしてます。まいこも一緒に呑む??
そうなのですよ。折り返し。時が経つのはあまりにも早いものですね。だからこそ、一日一日を大事に、有意義に過ごしたいなぁ、と思っているのでございます。
>みやじまくん
もちろん断りません。そろそろ呑みましょうか。君のことだから、また楽しいことを考えているのでしょう。報告楽しみにしてます。まいこも一緒に呑む??
Posted by コメスセイキ at 2008年04月16日 17:00