2008年02月28日
ケイチツ・カンワキューダイ(成長)
突然見つけたある方のブログ。公文の方。
日常の何気ない子どもとのやりとりなのですが、なんだか感動し
てしまった。
子どもが1mmくらい(比喩です)成長する、そういう瞬間って、何
気ない日常の、何気ない瞬間に起こる。それもたまたまのタイミ
ングでよな~。と、僕は勝手にその方の書いてるものに感応して
しまった。
そうだ。僕はこんな瞬間がとても好きだ。成長の瞬間。
檜舞台での発表の瞬間でもなし、
ファイナリストとしての活躍の瞬間でもなし、
ホントに血の出るほどの努力の瞬間でもなしに、
そういうのがなくても、人って案外成長する。
イチローなんて見習わなくても、誰でも成長するのだ。
いや言い直した方が良いかも。
人って、そういう栄光的、超人的なものがなくても、人と人との
交わりの中で成長するもの。ではないかと思ってる。
教育の現場、とりわけその成長が著しい小学生のいる空間は、
僕にとっては、そんな成長の瞬間を目の当たりにできる、そん
な瞬間に携わることのできる格好の場所なのである。
のではないかと自分で自分の居場所を思う。
1mmの成長。
それはいたって平凡なのかもしれない。だって誰でも成長する。
当たり前程度の成長。心身に見合った発達、と言われてしまう
のかもしれない・・・。
でも、そんなことはない。よ。
だって、その僅かな成長のタイミングを逃した子って、現にいる
のよ。そういう、ものすごく不憫な子を見つめたとき、
この一見当たり前の成長を、しっかり積み重ねるっての、ものす
ごく大事なことだよ、と心から思うのである。
この瞬間の小さな一歩は、人生にとっては掛け替えのない一歩
なのである。と思う。
そんで、タイミングのこと。
たまたま何気ない会話の中で発した自らの言葉が、相手を1mm
の成長のきっかけになったと思うとき、正直、「おー偶然」と思って
しまう。幸いしたな、と思ってしまう。
でも、もしかすると、その僕の言葉は、その子との毎日の関わりと
いう積み重ねの中でゆっくり醸成され、発せられたものだった、と
言うこともできる、ような気がする。
こういう漠然とした思いにかられた今、ある詩がフッと降りてきた。
この前読んだ詩じゃんか!
「たまたまなんです」(宮沢和史)
たまたまなんです
あなたがそんなに
「いい歌だね」って
言ってくれた曲が書けたのは
(略)
でも
その曲を書いた夜
僕がギターを抱えノートの前に座っていたことは
たまたまではないんです
(略)
水内喜久雄編『一編の詩が あなたを 強く抱きしめる 時がある』(PHP研究所2006)所収
僕はギターの代わりに、子どもを抱え(比喩です。あくまでね)、
時にしかめっ面で、時にはつらつと、時に困惑して、時に笑顔
で子どもと向き合う。
そうか、それはたまたまではないのよな。うん。
鈍才だけれど、一教員。
うちの子どもにとっては唯一の担任。
そういう必然を、僕はやっぱ信じたい。
そういう必然を積み重ねる教員になりたい。な。
何だかムシ(蟄)の居所がおさまりはじめた、ような。
日常の何気ない子どもとのやりとりなのですが、なんだか感動し
てしまった。
子どもが1mmくらい(比喩です)成長する、そういう瞬間って、何
気ない日常の、何気ない瞬間に起こる。それもたまたまのタイミ
ングでよな~。と、僕は勝手にその方の書いてるものに感応して
しまった。
そうだ。僕はこんな瞬間がとても好きだ。成長の瞬間。
檜舞台での発表の瞬間でもなし、
ファイナリストとしての活躍の瞬間でもなし、
ホントに血の出るほどの努力の瞬間でもなしに、
そういうのがなくても、人って案外成長する。
イチローなんて見習わなくても、誰でも成長するのだ。
いや言い直した方が良いかも。
人って、そういう栄光的、超人的なものがなくても、人と人との
交わりの中で成長するもの。ではないかと思ってる。
教育の現場、とりわけその成長が著しい小学生のいる空間は、
僕にとっては、そんな成長の瞬間を目の当たりにできる、そん
な瞬間に携わることのできる格好の場所なのである。
のではないかと自分で自分の居場所を思う。
1mmの成長。
それはいたって平凡なのかもしれない。だって誰でも成長する。
当たり前程度の成長。心身に見合った発達、と言われてしまう
のかもしれない・・・。
でも、そんなことはない。よ。
だって、その僅かな成長のタイミングを逃した子って、現にいる
のよ。そういう、ものすごく不憫な子を見つめたとき、
この一見当たり前の成長を、しっかり積み重ねるっての、ものす
ごく大事なことだよ、と心から思うのである。
この瞬間の小さな一歩は、人生にとっては掛け替えのない一歩
なのである。と思う。
そんで、タイミングのこと。
たまたま何気ない会話の中で発した自らの言葉が、相手を1mm
の成長のきっかけになったと思うとき、正直、「おー偶然」と思って
しまう。幸いしたな、と思ってしまう。
でも、もしかすると、その僕の言葉は、その子との毎日の関わりと
いう積み重ねの中でゆっくり醸成され、発せられたものだった、と
言うこともできる、ような気がする。
こういう漠然とした思いにかられた今、ある詩がフッと降りてきた。
この前読んだ詩じゃんか!
「たまたまなんです」(宮沢和史)
たまたまなんです
あなたがそんなに
「いい歌だね」って
言ってくれた曲が書けたのは
(略)
でも
その曲を書いた夜
僕がギターを抱えノートの前に座っていたことは
たまたまではないんです
(略)
水内喜久雄編『一編の詩が あなたを 強く抱きしめる 時がある』(PHP研究所2006)所収
僕はギターの代わりに、子どもを抱え(比喩です。あくまでね)、
時にしかめっ面で、時にはつらつと、時に困惑して、時に笑顔
で子どもと向き合う。
そうか、それはたまたまではないのよな。うん。
鈍才だけれど、一教員。
うちの子どもにとっては唯一の担任。
そういう必然を、僕はやっぱ信じたい。
そういう必然を積み重ねる教員になりたい。な。
何だかムシ(蟄)の居所がおさまりはじめた、ような。
Posted by sky1973629 at 23:01│Comments(0)
│教えること育てること