2008年02月17日
バレンタインデーの現象学(じゃないか)
けっ!!!と思ってる。
他でもない。もう過ぎたバレンタインデーというものに。
いやいや、これは嫉妬ではない。羨望でもない。ホントよ。
マジですよ。本当に「けっ!くだんねー」と思ってるの。
だから、お返し?なんてものも絶対にしない。
だって、それ僕が要求したものではないのですから。
僕には不要なのですから。
こういう人間を、この世知辛い世情では「偏屈」というらしい。
まあいいさ、同調圧力は鈍才には無用なのである。
それでも、そう思えるようになったのは、ほんの数年ほど
前からで、それまでの僕はもう、義理をもらってもどうでも
こうでも、相手からしてみても、それはもうどうでもよいもの
であるのに、「もらったということは、何らかの形でお返し
をしないといけない・・・」「どうしよ」「でも義理チョコにマジ
でお返しのこと心配してるのも変だし・・・」「何あげよう」
「いくらにしよう」と・・・・・、これ腐心の種だったのでござい
ます。
でも、もうやらない。考えない。
そのゲームに加わらない。「決別」なのである。
これ一種のゲームなのです。
コミュニケーションゲーム。グループエンカウンター。
アイムオッケー、ユアオッケー。
孤独な人間が、生きる曙光を得るために考案した
相互確認ゲーム。僕たち繋がってるよねゲーム。
それはお年賀に始まり、バレンタインデー、ホワイトデー、
結婚記念日、母の日、父の日、暑中見舞い、お中元、誕
生日、敬老の日、勤労感謝の日、クリスマスで締めくくる、
隙間のない社会的ゲーム。社会化ゲーム。
やんなくても、実は生命の危機など起こりえない営為。
安定した癒しを得る保証もない。つまり、ゲーム。
もちろん、各業界の販売戦略の所以と指摘されるのも周
知の事実なのだけど、それに飛びついたのは、他でもな
い僕たちなのですから・・・。これは共犯関係にある。
もちろん、生命の危機に陥るゲームはある。
そもそもを考えると、僕たちのコミュニケーションのすべては
ゲームなのである。友とも妻とも子どもとも同僚ともサークル
員とも、このゲームを通して通じている。伸るか反るか。
そのすべてから降りたとき、たぶん僕は空っぽとなる。
僕が何者であるのかが分からなくなる。
それには理由がある。
コメスセイキは、他でもない他者によってアイデンティファイ
されている存在なのですから。他からどう見られているか、
他とどう繋がっているか、そういういわば他者の目を通した
自己観念によって僕は構成されている。
僕が僕をアイデンティファイできないとき・・・それはもう生命
の危機であるに相違ない。死に至る病。
確かに、人が他者とのコミットなしに生きていけないのは
分かってる(つもりである)。
でもね、やっぱバレンタインデーはいらないよー。どう考え
ても(もちろん、ホワイトデーも)。それなのに、グダグダ言う
僕はしっかり蚊帳の外で、みんなみんな楽しそうにワイワイ。
ちぇ!おとななのにさ。
「コミュニケーション希薄」症候群の現代っ子のはずなのにさ。
みんな同調のアクセル踏んでるぜ。
苦しくないのかい・・・。
きつくないかい。
(黙殺)
あれですよ。あれ。
盛り上がってきたときに、その雰囲気壊すヤツ。
いるでしょ。おたくの周りにも。そうあれ。
その名称は切り口で変わってくる。
偏屈、クレーマー、モンスターペアレンツ、KY・・・
そして鈍才。
他でもない。もう過ぎたバレンタインデーというものに。
いやいや、これは嫉妬ではない。羨望でもない。ホントよ。
マジですよ。本当に「けっ!くだんねー」と思ってるの。
だから、お返し?なんてものも絶対にしない。
だって、それ僕が要求したものではないのですから。
僕には不要なのですから。
こういう人間を、この世知辛い世情では「偏屈」というらしい。
まあいいさ、同調圧力は鈍才には無用なのである。
それでも、そう思えるようになったのは、ほんの数年ほど
前からで、それまでの僕はもう、義理をもらってもどうでも
こうでも、相手からしてみても、それはもうどうでもよいもの
であるのに、「もらったということは、何らかの形でお返し
をしないといけない・・・」「どうしよ」「でも義理チョコにマジ
でお返しのこと心配してるのも変だし・・・」「何あげよう」
「いくらにしよう」と・・・・・、これ腐心の種だったのでござい
ます。
でも、もうやらない。考えない。
そのゲームに加わらない。「決別」なのである。
これ一種のゲームなのです。
コミュニケーションゲーム。グループエンカウンター。
アイムオッケー、ユアオッケー。
孤独な人間が、生きる曙光を得るために考案した
相互確認ゲーム。僕たち繋がってるよねゲーム。
それはお年賀に始まり、バレンタインデー、ホワイトデー、
結婚記念日、母の日、父の日、暑中見舞い、お中元、誕
生日、敬老の日、勤労感謝の日、クリスマスで締めくくる、
隙間のない社会的ゲーム。社会化ゲーム。
やんなくても、実は生命の危機など起こりえない営為。
安定した癒しを得る保証もない。つまり、ゲーム。
もちろん、各業界の販売戦略の所以と指摘されるのも周
知の事実なのだけど、それに飛びついたのは、他でもな
い僕たちなのですから・・・。これは共犯関係にある。
もちろん、生命の危機に陥るゲームはある。
そもそもを考えると、僕たちのコミュニケーションのすべては
ゲームなのである。友とも妻とも子どもとも同僚ともサークル
員とも、このゲームを通して通じている。伸るか反るか。
そのすべてから降りたとき、たぶん僕は空っぽとなる。
僕が何者であるのかが分からなくなる。
それには理由がある。
コメスセイキは、他でもない他者によってアイデンティファイ
されている存在なのですから。他からどう見られているか、
他とどう繋がっているか、そういういわば他者の目を通した
自己観念によって僕は構成されている。
僕が僕をアイデンティファイできないとき・・・それはもう生命
の危機であるに相違ない。死に至る病。
確かに、人が他者とのコミットなしに生きていけないのは
分かってる(つもりである)。
でもね、やっぱバレンタインデーはいらないよー。どう考え
ても(もちろん、ホワイトデーも)。それなのに、グダグダ言う
僕はしっかり蚊帳の外で、みんなみんな楽しそうにワイワイ。
ちぇ!おとななのにさ。
「コミュニケーション希薄」症候群の現代っ子のはずなのにさ。
みんな同調のアクセル踏んでるぜ。
苦しくないのかい・・・。
きつくないかい。
(黙殺)
あれですよ。あれ。
盛り上がってきたときに、その雰囲気壊すヤツ。
いるでしょ。おたくの周りにも。そうあれ。
その名称は切り口で変わってくる。
偏屈、クレーマー、モンスターペアレンツ、KY・・・
そして鈍才。
Posted by sky1973629 at 10:09│Comments(0)
│よのなか