2008年03月07日
成熟している彼と未成熟の僕
2月のある日、帰路。車中。
あるラジオ番組を聴いてたら、
ゲストに点描画家の大城清太さんがお招きされていた。
彼のことは知ってる。
点で絵を描く人だ(あたり前だな)。当然、繊細な作品である。
でも、作品以上に感動したことがあった。
他でもない彼のコメントである(ラジオを聴いてるから当然だ)。
流しっぱなしのラジオからインプットしたことなので、
はっきりしたことは忘れた。が、コメスなりに意訳すると、
彼はこういうことをしゃべっていた。
最近、コラボレーションをしていると。
自分の感性など限られていると。
だからコラボをして、他者からのエネルギーをもらうんだと。
新たな可能性を見出すのだと。
他者のエネルギーを得て、新たな自分というのが屹立するのだと。
そんなこんなで、異物である他者との交流が楽しみなのだと。
おとな・・・だなと思う。
「おとなの思考」だ、と思う。
その思考は、この肩を寄せ合って生きなければならない社
会において、とても優れたものであり、成熟したものである
と。僕はそう思う。安定感のある強い足腰。
前にも書いたけど、僕たちのアイデンティティというのは、
この僕によって作られるものではない。決してない。その
契機というのは、他でもない他者なのである。
僕を外から見るその無数の眼差し、その眼差しという贈り
物を逆に受け取ることで、僕らは自己を暫定的に確定し、
その確定されたもので暫定的に生きている、のである。
そのような不可避な社会的現実を、大城さんはあえて引き
受けている。あえて、と言うよりも、愉しみながら引き受け
ている。そこには、「わたし的には・・・」というような自己防
衛の城壁はすべて撤去されている。きれいさっぱり。
「何でもいいよ、おいで」という笑顔で柔軟な立ち位置。清々しい。
「オレはよぅ」と不満顔で自己弁解に労を費やすコメスは、ま
だまだ子どもである。まったく。
未成熟が未成熟を育てようとするから、うまくいかない。
トホホ。
僕の成長が、今、求められている。
あるラジオ番組を聴いてたら、
ゲストに点描画家の大城清太さんがお招きされていた。
彼のことは知ってる。
点で絵を描く人だ(あたり前だな)。当然、繊細な作品である。
でも、作品以上に感動したことがあった。
他でもない彼のコメントである(ラジオを聴いてるから当然だ)。
流しっぱなしのラジオからインプットしたことなので、
はっきりしたことは忘れた。が、コメスなりに意訳すると、
彼はこういうことをしゃべっていた。
最近、コラボレーションをしていると。
自分の感性など限られていると。
だからコラボをして、他者からのエネルギーをもらうんだと。
新たな可能性を見出すのだと。
他者のエネルギーを得て、新たな自分というのが屹立するのだと。
そんなこんなで、異物である他者との交流が楽しみなのだと。
おとな・・・だなと思う。
「おとなの思考」だ、と思う。
その思考は、この肩を寄せ合って生きなければならない社
会において、とても優れたものであり、成熟したものである
と。僕はそう思う。安定感のある強い足腰。
前にも書いたけど、僕たちのアイデンティティというのは、
この僕によって作られるものではない。決してない。その
契機というのは、他でもない他者なのである。
僕を外から見るその無数の眼差し、その眼差しという贈り
物を逆に受け取ることで、僕らは自己を暫定的に確定し、
その確定されたもので暫定的に生きている、のである。
そのような不可避な社会的現実を、大城さんはあえて引き
受けている。あえて、と言うよりも、愉しみながら引き受け
ている。そこには、「わたし的には・・・」というような自己防
衛の城壁はすべて撤去されている。きれいさっぱり。
「何でもいいよ、おいで」という笑顔で柔軟な立ち位置。清々しい。
「オレはよぅ」と不満顔で自己弁解に労を費やすコメスは、ま
だまだ子どもである。まったく。
未成熟が未成熟を育てようとするから、うまくいかない。
トホホ。
僕の成長が、今、求められている。
Posted by sky1973629 at 17:10│Comments(0)
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