2008年02月27日

ケイチツ・ソノイチ

ぐぐーっと冷え込みましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
こちらは、ひとまず要録の所見が終わったところでございます(フー)。



さて、そろそろ啓蟄(ケイチツ)である。

地面の中から、ここぞとばかりに蟄(ムシ)がはい出てくる季節。


僕の中からも、あの蟄(ムシ)がはい出てくる季節である。こんな
に忙しいのに、である。


自我の揺らぎ。筋道なき疾走。今は懐かしモラトリアムとも言う。



それいつものことでしょ。啓蟄にあまり関係ないでしょ・・・、とは
言わないように。(-_-)



今回のそれは、昨日の時間割にあるのである。

1校時 国語
2校時 英語
3校時 家庭科
4校時 算数
5校時 体育
6校時 社会


いつもの、専科なき恐怖の火曜日である。いわゆるフルコース。
ハードな火曜日、特に卒業式の準備や、タグラグビー大会に向
けての練習や、畑の管理や、ボランティア活動や、そういうのが
重なりまくる火曜日には、自我が揺らぐ(やっぱいつも揺らいで
るじゃん)。


僕って、何屋さん?


そういうレベルの低い揺らぎである。でも、この揺らぎって、結構
僕にとっては大きい。

なぜなら、身近な人間からは嫌だと言われるほど知られていま
すが、二つのことができない人間である。というよりも、やりたく
ない人間なのである。


大学院では、ジャン・ジャック・ルソーが提起した教育における「
自然」という言葉に、ずーっとこだわって、それでムダで稚拙な論
文を200ページも書いた。指導教官の迷惑も顧みずに。

その後も、その研究に触発されて、「人が子どもからおとなになる
のは何故だろう(精神的にね)」という問題意識のもと、ずーっとそ
の関連の本を読み続けている。かれこれ10年近く。

小説も、村上春樹ばかりを、それもデビュー作から『ダンス・ダン
ス・ダンス』までを、かれこれ数十回も読み返している。飽きずに。



いわゆるピンポインター、すなわち物狂い系である。



万歩ゆずってもオールラウンドプレイヤーにはなれない人間、なの
である。


その僕が、なぜ小学校教員という職に身を置いているのだろう。
何屋か分からないほどの、メリーゴーラウンドのような一日を過ご
すと、どうしてもその疑問に絡め取られてしまう。ムシが這い出て
来る。

そういう時は、僕が中学校でも高校でもなく、小学校教員を選ん
だその理由を見つけることが何よりも自己救済となる。


それは自己を物語るという作業となる。


さあて、どんな自己物語を作ろうか、今、考えています。
そう、自己というのは、事後的に物語ることで日々壊され再構築
されるものなのです。
(cf.浅野智彦著『自己への物語論的接近』勁草書房2001)


その物語が出来上がったら、また更新します。
それでは皆様、冷え込みますが、くれぐれもご自愛くださいね。




事務処理的死のロードでおかしくなった、
訳ではないと思います。たぶん。



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Posted by sky1973629 at 23:21│Comments(0)日常
 
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