仮定のお話し
たったいま死ぬかもしれない
こころの底からそう思えれば
あらそいもいさかいもしたくなくなる
(後略)
谷川俊太郎さんの詩「たったいま」の冒頭。
「たったいま死ぬかもしれない」・・・と僕は思うと、やっぱり無碍に死にたくない。人々の耳目から遠ざかった無駄な死は嫌だ。ましてや流れ弾に当たったり、恨み辛みの籠もった弾丸や刃の犠牲になんかなりたくない。他でもない僕の死は尊いものであってほしい。「たったいま死ぬかもしれない」と思えば、そういう情感が素直にこぼれてくる。
4年間も憲法ゼミに籍を置いたのに、僕は日本国憲法の比類なさを明確に示すことはできない。分からないことが多くて口をつぐんでしまう。権利事項を書き換えるための国民的議論が必要だという某党の改憲論理もよく理解できない(改正が必至なほどに現行憲法は国民の権利を看過しているのだろうか?)。集団的自衛権は、この国際社会の中でどうしても必要なものなのだろうか・・・。う~ん、難し過ぎる。ただ言えるのは、「たったいま死ぬかもしれない」と自分自身をその境地に連れていったとき、やはり「戦争はいやだ」ということ。僕が嫌なものを、僕が上に立ったとして命じることなんかできるわけない。それはあまりにも誠実に欠ける。僕の人としての生き様に関わる。これは親や学校の先生から教わったこと。当たり前の躾のレベル。そこからの感情。
集団的自衛権を認めるべく9条改正を目論む世の偉い方々は、自分がのたれ死ぬことにやぶさかではないのだろうかな?国家のためなら流れ弾に当たって道ばたで死んでいく自分を受け入れられるのかな。
僕は嫌だ。だから戦争も嫌だ。だから戦争を許容する憲法も嫌だ。
「短絡過ぎる!」と一蹴される前に、「いつも言っておるが、仮定の話しはしない!」と首相に怒られそうです。
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