希望をもつこと

sky1973629

2009年01月28日 23:20

昨日は「バーチャルADHD」というマシンを体験しにいった。
その後、何だか考えることが多くてボーッと新都心のカフェへ。同じくボーッと過ごす。

ボーッと過ごすことにも飽きたので、本棚から一冊手に取りパラパラッと斜め読み。読んだのは『希望学』というもの。就労に関わる研究では著名な玄田先生が音頭をとっていらっしゃるよう。

でも何だかよく分かんない。「希望を科学する」って何なのさ。「希望」という極めて近代的宗教的なマジックワードを研究して何が出てくるのだろうか・・・。浅薄な僕にはいまいち理解できなかった。


「希望」は、この世知辛い環境で、僕に光明を与えてくれるものであるとは強く実感してる(このブログでもよくそんなことを書いてる)。でもその反面、それに確実に縛られてる自分もいる。「希望(まれなのぞみが叶う可能性を強く思う)」が主因となって現実を直視できない、現実の良さを味わえない貧しい自分を実感する瞬間もまた、僕には多い。「希望」ってよく分かんない。いやはやADHDと同じだ・・・。


帰りにあえて聴きたくなる。僕にとっての「希望」の伝道師。



元春が「tomorrow!」ではなく「someday!」と叫ぶとき、僕の中の自己実現という鎖はなんでだろか・・・解錠される。あっ、そうかもね。「いつかさぁ、・・・」と語ってるとき、その不確定な無責任さによって、その「希望」はね、その堅苦しさから解放されるのかもしれないよ。「希望」が元で「こうしなきゃなんない!」なんて思わなくていいもの。だってその希望は「いつの日か」なのだから。だからさ、熱い思いのままでいられる。未知の自分にワクワクする。うん、さすが伝道師。ありがと。


※飛躍の多い自分勝手な記事ですみません。コメス拝

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