春樹をめぐる冒険?②
祝日前の夜。さっきのブログを書き終えると、僕はうちの子どもが保育園に着ていった洋服を洗い、パタンパタンとしわを伸ばして干した。クラスの子が忘れていったエプロンもついでに。それが終わると生徒指導の公文を2枚作った。
かなり地味で悲哀も漂う夜。まあいいさ。
内田先生は、村上春樹の小説のテーマについて、「邪悪なものが存在する(ということ)」と言い放つ。正直なとこ「???」である。でも読み進めるとね、何となく「そうかも・・・」なんて思ってもくる。
邪悪なものによって損なわれるという経験は私たちにとって日常的な出来事である。しかし、私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。(略)これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、わたしたちをさらに高度な人間理解に至らせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか言いつくろうとする。私たちは自分たちが受けた傷や損害がまったく「無意味」であるという事実を直視できない。
(略)
しかし、心を鎮めて考えれば、誰でも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。
村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を淡々と記述し、そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。
(前掲書pp209-210)
ポストモダン!!う~ん。合点したいようなしたくないような・・・。いつも意味を求めてしまう「不可避的合理主義」人間なコメスとしては、今ひとつ賛同しがたいのだけれど、言われてみればそうかもしれない、とも思う。
辛いことを「合理的(意味がある)」に捉えることで、それを乗り越えるのが得策か。それともさ、辛いことを「無意味!」として捉えることが良策か。僕には分からない。でも、世界には「邪悪なもの」があり、それはいつでも僕らの身に降りかかるのよ、なんて思ってると、それが降りかかっていない日常の平凡な風景が「ごくらく」に見えてくるのかもしれない・・・。有り難いってさ。それもいいなぁ。「合理的」人生よりも精神的には軽やかだ。マッチョじゃない人生。ハングルーズ。イエイ。
すべてはあるがまま・・・なんて思えたら肩の荷が下りるかもしれないね。こんな感じかな↑。自然体。
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