呆れて自戒

sky1973629

2008年11月20日 01:29

1)発言を求められる場において、何も発言しないことは「考えていない」と見なされても仕方がない。
2)褒める・認めるだけでは何も向上しない。

よって、この2つの態度は、常に高い成果を求める企業においては許されるものではない。つまるところ「給料泥棒」である。


どうでしょ。手厳しい??


これは、僕がかつて所属したサポセンのリーダーが常に言っていたこと。僕たちはこの考え方を徹底的にたたき込まれた。ブレインストーミングでは、他者の考えを褒めるだけの人間は「お前の意見はないのか?」とバカにされ、サービス向上の戦略会議で無発言の者はみんなの前で立たされ、「給料泥棒」と罵られた。だからいつも僕らは必死だった。電話を取ってるときの方が楽だと思ったことさえあった。

会社は成果を追求する場所。そのために常に変化を余儀なくされる。ゆえに、社員たる者に「迎合」や「沈黙」や「棄権」などの権利は認められない、とリーダーはいつも言ってた。


あの会社を僕は最後まで好きにはなれなかったけれど、このリーダーにはいつも魅了された。厳しいけど頼れる人。プロだなって、いつも感服させられた。そこに責任と自信が生まれるのか・・・ってさ。



それにしても今日の授業研究会は最悪だった。わざわざ遠方まで車を走らせて見に行ったのに・・・さ。

はっきり言ってダメな授業だった。テンポが悪く、焦点が定まらず、子どもに媚びた知的でない展開・・・という三拍子そろったつまらない授業。ワークシートを埋められず、ザワザワとするしかない子どもたちが不憫だった。もちろん、「こんな授業しちゃいけないな」「オレの授業って大丈夫かな?」と、自身の戒めにはなったけれど。


でもいいじゃないですか。誰だって失敗を何度も繰り返して成長するのですから。ね。よって、肝心なのは授業終了後に行われる授業研究会なのですよ。僕はそう思ってました。腕まくりして会に臨んだんです。批判してやろ~って(笑)。でも、それを通してよりよい代案をみんなの力で見出せるはずだって。期待してたんです。だから、先陣もきりました。「最初に投げかた内容の焦点が曖昧。絞られてない」って。そのツケがずっっと尾を引いて、最後の子どもたちの発表のちぐはぐさにも現れてたんじゃないかって。


期待して損しました(>_<)


基本的にだ~れも積極的に発言しない。50名以上いて・・・ですよ。
「それであんたはどうなのさ」っていうよそ者に対する視線。「早く終わろうよ」っていう冷ややかな眼差し。とは思いたくないのだけれど、何も言わない人々の心の中まで察することは到底出来ない。

校務ですので、さっさと会を終えることも出来ず、あとは司会が指名で感想を発表させる始末。学校の先生方ですよ~。もう。学級会や学級懇談会やPTA総会でさえ、もっと活発ですよ。そしてちらほら出された感想は、すべて「お疲れさまでした」「ご苦労なされて・・・」に始まり、挙げ句の果ては「私にはこんなことはできない」とか「すばらしい教具で感心」とか・・・。「すばらしい授業でした」という感想は出ず、何となくごまかした感じの感想だったので、やはり皆の胸中にも同様のものはあったのかな・・・と思いつつ、どっぷり徒労感のまま終了。あ~、ばっかみたい。校務ですよ。金かかってるんですよ。


学校に対する批判はとても多い。でもできれば、こういう公費による研究会の程度の低さと無駄の多さをぜひ指摘してもらいたい。こんな研究会ならやらない方がいい。学級で子どもたちとガチンコで授業している方がよっぽど学べる。

こういうことを今日、僕はとてもとても叫びたくなった。でもできなかった。新参者であることの引け目もあったし、この場で「そもそも論」を展開してよいのか、という疑問もあったから。でも、今になって突き詰めれば、「浮きたくない」「嫌われたくない」という思いが自分にもあったのは確か。おそらく、こういう保身的な行動の一つひとつの積み重ねのおかげで、この会はここまで堕落したのでしょう。


忘れてはならないこと。それは、人に好かれるために仕事をしてる訳じゃない、ということ。人のためになる仕事をしている、ということ。だからこそ、次はもっと僕に出来ることをやらなくちゃ。ダメな部分は言えばいい。一つひとつ直していけばいい。その先陣を切ること。その勇気を持つこと。教訓を一つ得ることはできた。


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