2月のある日、帰路。車中。
あるラジオ番組を聴いてたら、
ゲストに点描画家の大城清太さんがお招きされていた。
彼のことは知ってる。
点で絵を描く人だ(あたり前だな)。当然、繊細な作品である。
でも、作品以上に感動したことがあった。
他でもない彼のコメントである(ラジオを聴いてるから当然だ)。
流しっぱなしのラジオからインプットしたことなので、
はっきりしたことは忘れた。が、コメスなりに意訳すると、
彼はこういうことをしゃべっていた。
最近、コラボレーションをしていると。
自分の感性など限られていると。
だからコラボをして、他者からのエネルギーをもらうんだと。
新たな可能性を見出すのだと。
他者のエネルギーを得て、新たな自分というのが屹立するのだと。
そんなこんなで、異物である他者との交流が楽しみなのだと。
おとな・・・だなと思う。
「おとなの思考」だ、と思う。
その思考は、この肩を寄せ合って生きなければならない社
会において、とても優れたものであり、成熟したものである
と。僕はそう思う。安定感のある強い足腰。
前にも書いたけど、僕たちのアイデンティティというのは、
この僕によって作られるものではない。決してない。その
契機というのは、他でもない他者なのである。
僕を外から見るその無数の眼差し、その眼差しという贈り
物を逆に受け取ることで、僕らは自己を暫定的に確定し、
その確定されたもので暫定的に生きている、のである。
そのような不可避な社会的現実を、大城さんはあえて引き
受けている。あえて、と言うよりも、愉しみながら引き受け
ている。そこには、「わたし的には・・・」というような自己防
衛の城壁はすべて撤去されている。きれいさっぱり。
「何でもいいよ、おいで」という笑顔で柔軟な立ち位置。清々しい。
「オレはよぅ」と不満顔で自己弁解に労を費やすコメスは、ま
だまだ子どもである。まったく。
未成熟が未成熟を育てようとするから、うまくいかない。
トホホ。
僕の成長が、今、求められている。