われお気楽な落ちこぼれなり

sky1973629

2008年02月18日 21:58

詩編を読んでいる。

水内喜久雄編『一編の詩が あなたを 強く抱きしめる 時がある』
(PHP研究所2007)

あるテーマに沿って寄せ集められた詩集は、
正直言って、あまり好きではない。

テーマがキャッチーでベタで浅薄でチープな場合が多いから
(偏見でごめんなさい)。

本編、編者の水内さんが付したテーマもなかなかベタであり、
ありきたりなものだ。でもね、なぜか最後の

「時がある」

という言葉に惹かれたの。

イエスでもノーでもない曖昧さ。
断言じゃない素直さ。

とてもとても詩が好きであろう水内さんが断言しない。
その謙虚さに、何だか誠実さを感じた。

詩というのは、一般的にではなく、特殊に、
つまり、読み手それぞれに独特に(その人なりに)響くもので
あるという、そういう態度に惹かれたのだと思う。

だから読んでいる。



そして、何編もある中で
やはり僕を掴まえたのは、茨木のり子「落ちこぼれ」。
その一節。


「落ちこぼれずに旨げに成ってむざむざ食われてなるものか」(前掲書pp.130-131)


僕ははっきり言って、この人怖い。僕も鈍才、つまるところは
落ちこぼれだけれど、怖い。
「華々しい意志」で「落ちこぼれ」になんか、そういう高尚なレ
ベルで落ちこぼれになんか、なれないし、なりたくない。


このルサンチマン(怨恨)に溢れた詩人、たぶん、見た目は
普通のおばあちゃんだったであろうこの人の詩は、僕はまだ
その詩のいくつしか知らないのだが、怖いのである。


遭遇するたびに怯える。


うまく言えないのだけれど、彼女、いつも泥の中で大声で叫
んでるように感じる。
この泥沼から出たい、とではない。
この泥沼でいいのだ、と叫んでいる。
泥沼上等!!下水上等!!下人上等!!何とでも呼べ!
私は生きてやる(怨み)!!って感じ。


茨木さんは女流詩人としてとても有名なのだけれど、
だからこんなこと書くと怒られそうなのだけれど、
ここまで開き直るには、茨の道があったのだろうけど、
茨どころではなく、修羅場があったのだろうけど、
僕には怖い。

ルサンチマンは、潜在的にはもちろん僕の原動力ではある
のかもしれないけれど、顕在的に怨みつらみを書くと、もう
僕は僕がダメになりそうなのである。



まだまだ学ばなければならないことは膨大だけど、
それでも、
僕はいつも迷って遅れを取っちゃう明るい鈍才のままでいい。


それが僕の、僕なりの
ささやかだけど、僕にとっては甚大な
「幸せになるための努力」なのです。

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