われお気楽な落ちこぼれなり
詩編を読んでいる。
水内喜久雄編『一編の詩が あなたを 強く抱きしめる 時がある』
(PHP研究所2007)
あるテーマに沿って寄せ集められた詩集は、
正直言って、あまり好きではない。
テーマがキャッチーでベタで浅薄でチープな場合が多いから
(偏見でごめんなさい)。
本編、編者の水内さんが付したテーマもなかなかベタであり、
ありきたりなものだ。でもね、なぜか最後の
「時がある」
という言葉に惹かれたの。
イエスでもノーでもない曖昧さ。
断言じゃない素直さ。
とてもとても詩が好きであろう水内さんが断言しない。
その謙虚さに、何だか誠実さを感じた。
詩というのは、一般的にではなく、特殊に、
つまり、読み手それぞれに独特に(その人なりに)響くもので
あるという、そういう態度に惹かれたのだと思う。
だから読んでいる。
そして、何編もある中で
やはり僕を掴まえたのは、
茨木のり子「落ちこぼれ」。
その一節。
「落ちこぼれずに旨げに成ってむざむざ食われてなるものか」(前掲書pp.130-131)
僕ははっきり言って、この人怖い。僕も鈍才、つまるところは
落ちこぼれだけれど、怖い。
「華々しい意志」で「落ちこぼれ」になんか、そういう高尚なレ
ベルで落ちこぼれになんか、なれないし、なりたくない。
このルサンチマン(怨恨)に溢れた詩人、たぶん、見た目は
普通のおばあちゃんだったであろうこの人の詩は、僕はまだ
その詩のいくつしか知らないのだが、怖いのである。
遭遇するたびに怯える。
うまく言えないのだけれど、彼女、いつも泥の中で大声で叫
んでるように感じる。
この泥沼から出たい、とではない。
この泥沼でいいのだ、と叫んでいる。
泥沼上等!!下水上等!!下人上等!!何とでも呼べ!
私は生きてやる(怨み)!!って感じ。
茨木さんは女流詩人としてとても有名なのだけれど、
だからこんなこと書くと怒られそうなのだけれど、
ここまで開き直るには、茨の道があったのだろうけど、
茨どころではなく、修羅場があったのだろうけど、
僕には怖い。
ルサンチマンは、潜在的にはもちろん僕の原動力ではある
のかもしれないけれど、顕在的に怨みつらみを書くと、もう
僕は僕がダメになりそうなのである。
まだまだ学ばなければならないことは膨大だけど、
それでも、
僕はいつも迷って遅れを取っちゃう明るい鈍才のままでいい。
それが僕の、僕なりの
ささやかだけど、僕にとっては甚大な
「幸せになるための努力」なのです。
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