2008年02月16日
鶴次郎の想像力
2時間目のチャイムが鳴り響く。
すかさずある読み物を配付。
花岡大学の「うろこ雲」、それである。
(西本鶏介編『小学校6年生・読書の時間によむ本①』ポプラ社所収)
1972年、ちょうど僕が生まれる一年前に書かれた作品。
ゆっくり音読をしても、5分もかからないような小編だ。
主人公の鶴次郎は、アンゴラウサギを愛玩する小学生の男の子。
お嫁に行ったっきり、これまで帰省したことのなかったお姉ちゃんが
帰って来たときの出来事を綴ったお話である。
ウサギのためにたんぽぽの葉をつみながら、急ぎ足で帰宅した
鶴次郎の目に止まったのは、庭の木にべっしょりと吊された毛
皮だけのアンゴラウサギだった。そして、その肉を煮ている香り
が辺りに漂う。
「殺したのは、父にちがいない」(前掲書p.194)
そう思った鶴次郎は、小学生でありながら、込み上げる激しい怒
りにわなわなとふるえる。殺意とさえ言える激怒。
でも、その怒りはユキ姉ちゃんの姿で、瞬く間に行き場を失う。
「まるで幽霊みたいに、骨と皮にやせているのだ」
「姉ちゃんは、もうあんまり長く生きていないかもしれない」
(前掲書p.196)
ハラハラと落ちる涙をぬぐいながら、鶴次郎は海辺のほうに歩い
ていく。
この展開に、子どもたちは半ば言葉を失う。
子どもたちにとっては、何よりも愛玩動物が煮て食われるという
出来事に立ち会ったことがない(もちろん僕もその一人)。
この未知との遭遇により、教室はしーんと静まりかえる。そこに
追い打ちをかけるお姉ちゃんの容姿である。ダブルショック。
でも、僕が何よりも子どもたちに伝えたい、感じてもらいたいのは、
実はここからの展開にある。
砂浜に座った鶴次郎の胸に、こんな思いが波のように押し寄せる。
「あんなにやせおとろえた姉ちゃんの顔を見たとき、とっさに、鶴
次郎のだいじにしているうさぎを殺して食べさせる気になった父
のあわてた心が、はっきりわかりさえするのだった。」
(前掲書p.197)
なんと!鶴次郎は父を赦すのだ。
ここで、僕は子どもたちに問う。
「ウサギを殺したのは父なのか」
「煮ているのはウサギなのか」
「お姉ちゃんはもう死ぬのか」
「ウサギはお姉ちゃんに食べさせるために殺されたのか」
答えはすべて「No」である。
いや、正確に言えば、「分からない」であるはずだ。
だって、鶴次郎は家の中に入ってもいなければ、父とも姉とも
一切会話を交わしていないからだ。鶴次郎はくぐり戸の陰から
そっと家の中を見回し、そのまま海辺へと行くのだから。
そんなに「分からない」ことだらけの中で、鶴次郎はなぜ父を赦
したのか。
イマジン
鶴次郎は、いわば「想像する」ことで、出来事を先取りし、自分
の心を落ち着かせたのである。怒りを静めたのである。自分の
愛玩を抹殺した父の思いにまで寄り添おうとするのである。
「想像」を働かすことがなぜ、社会で生きていく上で大事なこと
なのかが、この鶴次郎の心の変化に体現されている。と思う。
その出来事の先取りという機制が、感情に揺さぶられた人間を
押しとどめる。自分には考えも及ばなかった他人の異質な言動
に共鳴することを求めるのだ。
人間は「想像する」ことで優しくなれる。
何よりも、「想像」できる人間になりなさい。
僕の授業はここで終わる。
むろん、この授業は僕自身への戒めそのものでもある、こともここに記す。
すかさずある読み物を配付。
花岡大学の「うろこ雲」、それである。
(西本鶏介編『小学校6年生・読書の時間によむ本①』ポプラ社所収)
1972年、ちょうど僕が生まれる一年前に書かれた作品。
ゆっくり音読をしても、5分もかからないような小編だ。
主人公の鶴次郎は、アンゴラウサギを愛玩する小学生の男の子。
お嫁に行ったっきり、これまで帰省したことのなかったお姉ちゃんが
帰って来たときの出来事を綴ったお話である。
ウサギのためにたんぽぽの葉をつみながら、急ぎ足で帰宅した
鶴次郎の目に止まったのは、庭の木にべっしょりと吊された毛
皮だけのアンゴラウサギだった。そして、その肉を煮ている香り
が辺りに漂う。
「殺したのは、父にちがいない」(前掲書p.194)
そう思った鶴次郎は、小学生でありながら、込み上げる激しい怒
りにわなわなとふるえる。殺意とさえ言える激怒。
でも、その怒りはユキ姉ちゃんの姿で、瞬く間に行き場を失う。
「まるで幽霊みたいに、骨と皮にやせているのだ」
「姉ちゃんは、もうあんまり長く生きていないかもしれない」
(前掲書p.196)
ハラハラと落ちる涙をぬぐいながら、鶴次郎は海辺のほうに歩い
ていく。
この展開に、子どもたちは半ば言葉を失う。
子どもたちにとっては、何よりも愛玩動物が煮て食われるという
出来事に立ち会ったことがない(もちろん僕もその一人)。
この未知との遭遇により、教室はしーんと静まりかえる。そこに
追い打ちをかけるお姉ちゃんの容姿である。ダブルショック。
でも、僕が何よりも子どもたちに伝えたい、感じてもらいたいのは、
実はここからの展開にある。
砂浜に座った鶴次郎の胸に、こんな思いが波のように押し寄せる。
「あんなにやせおとろえた姉ちゃんの顔を見たとき、とっさに、鶴
次郎のだいじにしているうさぎを殺して食べさせる気になった父
のあわてた心が、はっきりわかりさえするのだった。」
(前掲書p.197)
なんと!鶴次郎は父を赦すのだ。
ここで、僕は子どもたちに問う。
「ウサギを殺したのは父なのか」
「煮ているのはウサギなのか」
「お姉ちゃんはもう死ぬのか」
「ウサギはお姉ちゃんに食べさせるために殺されたのか」
答えはすべて「No」である。
いや、正確に言えば、「分からない」であるはずだ。
だって、鶴次郎は家の中に入ってもいなければ、父とも姉とも
一切会話を交わしていないからだ。鶴次郎はくぐり戸の陰から
そっと家の中を見回し、そのまま海辺へと行くのだから。
そんなに「分からない」ことだらけの中で、鶴次郎はなぜ父を赦
したのか。
イマジン
鶴次郎は、いわば「想像する」ことで、出来事を先取りし、自分
の心を落ち着かせたのである。怒りを静めたのである。自分の
愛玩を抹殺した父の思いにまで寄り添おうとするのである。
「想像」を働かすことがなぜ、社会で生きていく上で大事なこと
なのかが、この鶴次郎の心の変化に体現されている。と思う。
その出来事の先取りという機制が、感情に揺さぶられた人間を
押しとどめる。自分には考えも及ばなかった他人の異質な言動
に共鳴することを求めるのだ。
人間は「想像する」ことで優しくなれる。
何よりも、「想像」できる人間になりなさい。
僕の授業はここで終わる。
むろん、この授業は僕自身への戒めそのものでもある、こともここに記す。
Posted by sky1973629 at 02:45│Comments(0)
│教えること育てること